「大名茶人 織田有楽斎」展

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大名茶人 織田有楽斎展 美術展・写真展
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東京ミッドタウンにあるサントリー美術館で「大名茶人 織田有楽斎」展を観てきました。

展示内容

公式サイトの説明によると

有楽斎(うらくさい)こと織田長益は天文16年(1547)に織田信秀の子、織田信長の弟として生まれました。武将として活躍し、晩年には京都・建仁寺の塔頭「正伝院」を再興、隠棲します。正伝院内に有楽斎が建てた茶室「如庵」は国宝に指定され、現在は愛知県犬山市の有楽苑内にあり、各地に如庵の写しが造られています。正伝院は明治時代に「正伝永源院」と寺名を改め、いまに至るまで有楽斎ゆかりの貴重な文化財を伝えています。
(中略)
信長、秀吉、家康の三天下人に仕えて時流を乗り切り、晩年を京で過ごした織田有楽斎の心中には、どのような思いがあったのでしょうか。本展覧会は、2021年に400年遠忌を迎えた織田有楽斎という人物を、いま一度総合的に捉えなおそうと構成したものです。

四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎 サントリー美術館

とのこと。

大河ドラマ 真田丸だと井上純さんが演じたのが織田長益(有楽・如庵)。千利休に師事し、利休十哲の一人となった茶人として有名。一方で武将としては本能寺の変の際に織田信忠(織田信長の長男)と一緒に二条新御所にいたのに、そこを脱して岐阜に逃れたとして「逃げた男」との誹りを受けることになってしまった人。
そんな織田有楽斎とは、実際はどんな人物だったのかを、彼の残した茶道具や、知人とやり取りした書簡などから紐解いていく。

展示構成は以下の通り。

  • 第1章 織田長益の活躍と逸話―“逃げた男”と呼んだのは誰か
  • 第2章 有楽斎の交友関係
  • 第3章 数寄者としての有楽斎
  • 第4章 正伝永源院の寺宝
  • 第5章 織田有楽斎と正伝永源院―いま、そしてこれから―

義残後覚(ぎざんこうかく)」は秀吉びいきで、信長は酷評している江戸時代の世間話集。その中で織田長益も「腹を切れ」と批判(揶揄)している。しかし、豊臣政権下では豊臣・徳川の仲介役として、そして関ヶ原の戦いでは徳川方として活躍している。大坂夏の陣前後に建仁寺塔頭・正伝院を再興して、茶の湯に執心していく。

茶人としての交友関係は広く、多くの書簡が残されている:「細川忠興書状 織田有楽斎宛」、「金地院崇伝書状 織田有楽斎宛」、「織田有楽斎書状 藤堂和泉守宛」などなど。
また、彼が開催した茶会の様子は「有楽亭茶湯日記」に克明に記されている(後世の加筆修正あり?)。使われた茶道具が記録されていて、名物と呼ばれるいかに茶道具が珍重されていたかがわかる。
織田有楽斎や千利休らが作った茶道具も展示されている。織田有楽斎作の茶杓「落葉」は、模様が枯れ葉のように見えるからとのこと。

織田有楽斎が再興した正伝永源院に伝わるふすま絵、屏風絵も多く展示されている。十六面がずらっと並んで展示されている「蓮鷺図襖」は圧巻。

感想

名前は知っていたけど、それほど馴染みの深い人物ではなかった織田長益。茶人として名を残したことは知っていたけど、こんなにも広い交友関係を持っていたとは。歴史の裏側で色々と活躍(暗躍?)していたんですかね。どうしてもそんな風に勘ぐってしまいます。「逃げた男」だと思われていたらそんな調整役・交渉役は無理でしょうから、当時は周りからの信頼度の高い人だったのでしょう。

彼の作として残されている茶道具は“渋い”ものが多く(佗茶の道具は概してそうかもしれませんが…)、芸術家としても凄い人だったのだろうとも思われ、そんな二面性を持っていただろうところに惹かれてしまいました。
亡くなった年に描かれた肖像画も今回展示されていますが、そこに描かれた人物はとても真面目そうなお坊さんの姿。政治にも、芸術にも真摯に取り組んでいたんじゃないかな。

合戦の歴史を追うのはもちろん面白いですが、こんな風に一人の人物、そして茶の湯を通して戦国の武将たちが関係していたかを見ていくのも楽しいもの。それこそ、大河ドラマなどでは端役・脇役ではあるけど、歴史に書かれていないドラマがきっとあったのだろうと想像してしまいます。
「一芸は身を助く」ということなのかな。私も何か芸を身につけたいものです。そんなことを思った企画展でした。

美術展情報

コメント

  1. 中野 潤子 より:

    いつもながら大変面白く説明を読ませていただきました。文武両道を生きた人なのですね。渋い茶道具が魅力ですね。サントリーはいいものやりますね。

    • bunjin より:

      歴史は茶席で作られていたのかも知れませんね。興味深い展示でした。